「舞姫〜明治時代の知識人の生き方〜」

主人公の豊太郎は、立身出世を目指した青年であったが、それは彼が必ずしも特別な感情を抱いていた訳ではなく、明治時代という時代背景から影響されているものだと考えられる。

当時は勉強立身から始まり、立身出世主義から成っていたという言説がある。

現代の社会もそれに近いものが感じられる。

レベルの高い学校を卒業したから偉いとか、社会へ出て出世することが素晴らしいと騒がれている。

しかし、私はそうは思わない。

何故なら“人間としてどうなのか”が大切だと考えるからだ。

勉強が出来て、社会で高い身分をもらっている人でも、人としての生き方について疑問を抱く場合が多々ある。

例えば、自分の都合の良いように人を傷つけたり、蹴落とすような汚いやり方で上に這い上がってくる者がいる。

出世しなくてはならないという社会が与えるプレッシャーや、周りが加えるストレスから犯罪を犯してしまう者までいる。

そうかと思えば、何らかの事情を抱え学校を卒業出来ずにいるが、人間の温かさを持ちながら良い人間関係を築き、誰かのために役に立とうとしている者もたくさんいる。

この場合、学歴的に見たら明らかに前者の方が優れているとみなされるが、人として見た時に、私は後者の方が素敵な生き方をしていると思う。

学力重視になりつつある社会に疑問を投げ掛けられるのは果たして不思議なことなのであろうか。

 “自分らしさを大切に”と叫ばれている中で、それを作り難い状況に追い詰めている現代社会は、与えているものと求めているものが全くかみ合わず、矛盾している。

最近は、ニュースで成績の悪さを他人に責められたことが気に障り殺害してしまったとか、仕事で上手くいかず自殺してしまうという事件を耳にするこが多々ある。

これは、現代社会が引き起こした明治時代の立身出世主義に近い考え方が生み出した現状と、結果ではないだろうか。

そんな状況の中で、どう自分らしさを保てば良いのかと疑問に思うのはおかしくないだろう。

自分らしさというのは余裕がある中で見つけられるものだと私は感じるし、他の何かにとらわれ、我を忘れている時など見つけられるはずがない。

本文中でもあるが、主人公は「我ならぬ我」に疑問を感じ、いつしかそれを責めるようになり、「まことの我」を求めるようになる。

これも自分らしく生きたいという強い思いと、自我の目覚めが生じた影響からであるだろう。

自分らしく生きることで、自分のことも自然と好きになれると思うし、自信がついて、感情や周りに流されることも少なくなると考えられる。

エリスと肉体関係に陥ってしまったのも、結局は母の諫死、免官、本文中で指す「まことの我」を失い、冷静な判断ができなくなり、衝動的になったからだと読み取れるし、恋に盲目になってしまった原因も、興味を持ったものでも学問の妨げになるものは避けてきた中で見つけ出した快楽を知ってしまったからではないか。

また、恍惚の間にそうなってしまったということは、理性を失わざるおえなくさせた環境や境遇が大きく関わっていると言えるのだ。

 夏目漱石の「こころ」という作品はこの物語とは対称的に、友人よりも愛をとる。

その結果、大切な親友を失うことになるのだが、そのことにより主人公はとても深い傷を負い、一生忘れる事ができない出来事となってしまう。

一方、この作品は愛を捨てる結果に終わるのだが、エリスに告げ口をした親友を一生恨むことになる。

ここから分かるように、どっちをとっても結局は後悔しているということだ。

果たして何も失わずに欲しいものは手に入るだろうか。

私は、残念ながら何も失わずに欲しい物だけを得ることは不可能だと痛感する。

それは人生を経る過程で学ぶことでもあるが、人間という生き物は全てを完璧にこなすことはできないのだと突きつけられることと同様ではないだろうか。

ただ言えることはそれをどうして失ってしまったのかということの違いだ。 

豊太郎は最終的にエリスを置いての日本への帰国を決意し、愛を失わなくてはならない状況になるが、そのような大切な事実を伝えるのは絶対に本人でなくてはならなかったと断言できる。

帰国という決まった事実は変えられないにしても、長い時間を共に過ごし、信頼し合っていればいる程、他人に知らされるのはエリスにとって納得のいかないことだ。

しかし、結局は親友の相沢から愛するエリスの耳に入ることとなったが、どうやらそれに対して、豊太郎は自責と悔恨を抱いている。それは自分の口から言いたかったからなのであろうか。

そんな中で、私は彼が旅立つ日までに真実をエリスに伝えられたかどうかが気にかかる。

言えない理由としては、やはり既に新しい生命を身ごもっているエリスを置いて帰ることに罪悪感を抱いているからか、もしくはエリスを傷つけるのが怖いからか。

厳しい言葉だが、もしエリスを傷つけるのが怖いとしたら、逆に自分が傷つくのが怖いからではないのか。

また、帰国することによって社会でいうエリートになっても、自分でまいた種を刈り取れずにいる当人は人としてのエリートとは言えないであろう。

立身出世の考え方のために愛は出世への妨げとなり、大切な人までを犠牲にしてきた主人公はせっかく目覚めた自我を無視し、自分の意思表示よりも出世に促せられて、大切な物を守れずに終わってしまった寂しい人間だ。

一生誰かに流され、出世だけを生きがいにしていくのだというのか。

それはあまりにも、寂しい人生に聞こえるし、仕事面で豊太郎の代役は探せても、エリスにとって愛しい人の代わりはいないのだ。

増してやお腹の中には豊太郎との子供がいる。他の誰が血の繋がった父親になれるであろうか。

本来なら、愛する人の妊娠は喜ぶべきことなのに、それさえ出来ず、むしろ予想外の妊娠に戸惑うさまになり、一瞬の気の狂いで犯してしまったこの罪を一生背負っていくことになってしまう。

この一瞬で生じてしまった癒えない傷跡は、愛しい人に捨てられたエリスの心の叫びであり、父親がいないまま成長することになるであろう生まれてくる子供の痛みでもあり、仕事のように負った傷に終わりなどやって来ないのだ。

父親なしで、ましてやこのような事情で自分は捨てられたのだとエリスのように深い傷を負うであろう生まれてくる子供は、“子は親の背中を見て育つ”という言葉があるように、同じようなことを繰り返してしまう可能性も十分ありえると不安になる。

つまり豊太郎が起こしたその行動は、次世代を担う子供にまで影響させ、さらには近い未来に社会へ進出する人にも影響したことになる。

このような社会が追い詰め犯した過ちを何度も繰り返し、人として荒んでしまう世の中にしてしまうことで人は満足して暮らしていけるのだろうか。

生きている意味というのをもう一度考え直さなければならないのではないか。

生きる上で、上下関係を大切にしたり、社会に出て厳しさや難しさ、仕事を生きがいにするのは決して悪いことではない。

しかし、上下関係においては、まるで奴隷のように人として扱わないのはおかしい。

戦争だって、テロだって、極端に言えばそれに等しいものがある。

誰も人を殺して楽しい人はいないはずだし、大切な人が死んで悲しくない人などいないのだ。

それなのに今日でも争いが絶え間なく多発しているのは誰もが承知の事実で、上の者に逆らえば自分の命すら危ないというとんでもない状況に置かれている国々が悲しいことに世界にはたくさんある。

これを疑問に思う自分がいる一方で、もし自分だったらきっと逆らえないだろうなという思いに気付き、情けないと自分を思い知りつつ、初めはひどく責めた主人公の生き方を否定できないという、複雑な思いになる。

不確かな将来よりも、安定した将来を優先するのは弱い人間がすることなのであろうか。

ほとんどの人がそうしたいと願う事実は間違えないと思し、人間なら誰もがそう思うのではないか。

この物語も少しこの考えに似ている部分がある。

豊太郎は最終的に愛する人より、先が保障された未来、人に認められる確かな道を歩むことを選んだ。

エリスの立場なら許せないことだが、もし自分だったら同じ道を選んでいたのかもしれない。

そう考えると窮地に追い詰められたら、結局は自分が一番になり、全てを手に入れることが出来ない人間は、確実な未来へ進むためにも、自分の意思を殺さなくてはならない時があるのだろ思い知らされる。

豊太郎の渡航前と現在の考え方や価値観が大きく変わったように、それらはその人の境遇や時代に左右されるものだと考えられる。

また、自分の価値観が正しいと思いがちになってしまうのも仕方がない。

エリスと出会うまでは愛など見向きもしなかった訳だし、愛に価値など感じたことはないはずだ。

しかし、帰国途中(現在)に後悔の念を抱いているということは、渡航前に比べて自身が明らかに変わっていたと言える。

それを変えたのは間違えなくエリスとの出会いなのだ。

人生において、価値観までもを変えてしまう出会いは一体何回あるのだろうか。

それほど、エリスに影響を受けていた豊太郎だから、別れだってさぞかし辛かったはずなのだ。

しかし、封建的な流れに逆らえず自我も潰されていき、エリスを置き去りにするしかなくなってしまったことは、知識人としての誇り、時代背景が大きく関わっていることを頭の隅に置いて置かなくてはならないのだ。

そうでないと、ただ単に「豊太郎はひどい。」「エリスがかわいそう」という意見が増えてしまうからである。

意思表示すら出来ない状況に置かれ、立身出世が素晴らしいことだと主張される時代背景を理解することで、ただ出世したかったからエリスを捨てたのではなく、このような結果に終わってしまったという豊太郎の葛藤を受け入れることができるであろう。

また、あくまでもこの作品は豊太郎の視点から書かれたものであり、エリスが悲劇的な姿であればあるほど、豊太郎の立場が際立ったと考えられる。

もし帰国を自分の口から伝えることが出来ているとしたならば豊太郎はどのようにエリスに真実を伝えようとしたのであろうか。

始めは、もし真実を言えぬまま帰国したとしたら豊太郎は逃げているだけだなと強く責める気持ちで一杯だったが、このような豊太郎の立場や境遇、自分に置き換えて考え始めたら意見が180度変わったのも正直な意見だ。

また自分が豊太郎だったら真実を言えぬまま時間ばかり過ぎていた気もする。

私の中で、相沢は告げ口をしてやろうと悪意をもってエリスに事実を話したのではないと解釈している。

豊太郎がどんな形でエリスにこのことを話しても、エリスは混乱するだろうし、そのような状況が親友の相沢には鮮明に浮かんだのであろうか。

だから豊太郎が寝込んだ時を見計らって言ったのだと感じた。

親友だったら大切な友達が苦しむ姿は見たくないしだろうし、悪気があってエリスに伝えたのではないと読解する。

ある意味、相沢は悪役をかってくれたのだと私は判断したのだ。

豊太郎はこのような行動をとった彼を恨んでいるが、帰国という結果を覆すか、又はエリスを納得させる別れ方ができるという自信でもあったというのか。

この相沢という男のありがたさや、内心ホッとする気持ちは、時間が経ってから実感するものではないだろうか。

また、もしドイツに残り、エリスと上手くいっていたとしても、仕事に困ってしまう結末だとしたら後悔はなかったのであろうか。

結局はどっちの結果をとっても心残りはあっただろう。

それは両方手に入れたいと思う欲張りな気持ちでもあり、手に入れてみせるという強い思いから来たものだと言える。

 私は、この作品こそ明治時代の知識人としての生き方を考えさせてくれるものだ感じた。

出世を目指すが故に、捨てなくてはならない何かに苦悩する日々。

それをここまで考え深く書いている作品だからこそ評価されていると思うし、作者の実体験を重ねることで、よりリアルに表現されているのであろう。

 私は、豊太郎の生き方、つまり明治時代の知識人の生き方に対し簡潔に意見を述べるとすれば、好感は持てないが、否定も出来ないという結論にぶつかる。

何故ならそれは、現代社会はどこか似たような状況に遭遇しているし、その時代背景や人間の感情を照らし合わせたら、現代人も同じような生き方をしているのではないかと感じたからである。

出世をして世間で立派と騒がれ、豊富な知識を備えもっている人間が、人を愛する気持ちを持ってはならないという考えはおかしいし、当時の世の中でいう立派な人間でも、自分の意思を押し殺さなければならない姿がとても弱々しく見えた。

しかし、ある角度から見ると世間で認められた素晴らしい人間でも全てを手に入れることは出来ないのだという人間らしい一面にいっきに親近感がわいてきた。

先ほどからずっと述べている人間らしさというものは、さまざまな感情のことを指し、本文で言うなら渡航前のロボット人間のような豊太郎とはまさに正反対を示し、つまりエリスを愛した愛情であったり、まことの我になりたいという欲望であったり、自分が興味を持った文学を学ぶ喜びであったり、親友の起こした行動を責める憎しみの念であったりと、そのような全ての感情あってこそ人間らしさが成り立つと思うのだ。

この作品に触れて改めて、人との出会いや周りの環境というのは自分を大きく左右するものだなと実感したし、それが及ぼす影響の大きさというものも再確認することができた。

私はこれから出会う一人ひとりの出会いを大切にし、周りに良い刺激を与えられる人間でいたい。

また
、そう感じされてくれたこの学びを決して無駄にはしたくないと強く感じるのだ。